こころの声はかく語りき

それは恋とか愛とかの類いではなくて。ただひたすらに君がすき

加藤シゲアキが見せてくれたグリーンマイルを吐き出してみた。

加藤シゲアキ(NEWS)主演、舞台グリーンマイルを観劇し、思ったことをぶわーっと吐き出したものです。語彙力および文章力がないため、内容と言えるほどの内容はありません。

 

www.greenmile-stage.jp

 「死刑囚は殺されて当然でしょ?罪を犯した人は罰せられる。人を殺した人は死んで償うべき。私たち看守はただ死刑が執行されるまで、一緒に残りの時間を過ごし、一緒にグリーンマイルを歩き、彼らの死を見届ける存在にすぎない。これは仕事だから。」ポール、そして看守たちはこういうイメージを与えてくれた。第一幕の終わりまでは。

私は休憩入ったら気持ちが途切れてしまい、もう二度とグリーンマイルの世界に入れなくなるのが怖くて、休憩時間いらない!と正直思った。しかし、この15分間の幕間には確かに意味があった。やっぱり必要だった。観客、そして、ポールたちが「死刑ってなんだろう?本当に必要なのか。」について改めて考える貴重な15分だったかもしれない。

第一幕までの看守たちは自分たちの「仕事」を深く考えず、ただ明るく振舞い、死刑囚たちが安らかに最期を迎えられるためにできるだけ死刑囚たちに優しくあろうとした。ポールにも言ってたように「ここ(Eブロック)にいい奴は来ない」。確かに、死刑囚にいい奴なんているわけがない。死刑が下されたほどの悪事をしたのに、なぜ安らかに死ねるの?殺された人間の何十倍も、何百倍も苦しんで死ぬべきじゃないの?!と思う人もいるかもしれないが、その感情はものすごくわかる。しかし、感情論ではなく、ちょっとまじめな、制度的な話をすると、死刑囚にとって、命が奪われること自体が罰であり、彼らは命が奪われて初めて罪が償われる。だから、彼らは苦しんで死ぬ必要はない、もっと言えば、彼らは死刑によって苦しんで死んではいけない。どんな罪を犯してきたとしても、人から見れば10回殺されても足りないほどの悪事をしたとしても、惨殺は許されない。これが人権なのだ。だから、デラクロアが死刑囚として惨殺されたのは死刑の執行において決してあってはならなかった。そのためにポールたちは入念に死刑執行の練習を重ねたが、そのあってはならない出来事が起こってしまった。

パーシーがスポンジを濡らしてないせいで、デラクロアは苦しんで死んだ。執行当時にポールたちがしっかりパーシーを見てなかったから、油断してたから、パーシーのことを少しでも信頼してしまったから、デラクロアは惨殺された。ポールたちは当時何もできず、デラクロアがもがいて、苦しんで、焼かれてるのただ見てることしかできなかった。ポールはデラクロアを守りきれなかった。それは辛かったに違いない。デラクロアの処刑で彼らの心境に変化が訪れ、そして感情の揺らぎが第二幕にはっきり見えた。

少し話変わりますが、グリーンマイルが解禁されたのと同じくらいにちょうど私は卒論の準備で死刑制度について死ぬほど調べてた。アメリカと日本の死刑制度のことなら本当に嫌なくらい詳しくなった。だから終盤に看守3人が死刑制度について語るシーンはとても興味深かったし、執行シーンもかなり衝撃だった。死刑の立会いなんて一生経験することはないと思っていたが、まさか読んでた論文の内容がそのまま目の前に行われるとは..しかも、執行人が私のよく知ってる人物。単なる疑似体験だったが、衝撃とともに色んな感情が込み上げてきて言葉が出なかった。

私は死刑について調べてる間に、「被害者がかわいそう、被害者家族がかわいそう」より、一番思ったのは「死刑を執行する執行人がかわいそう」だった。彼らにとっては単なる仕事なのかもしれないが、人を殺してることは変わりがない。すこぶる言い方が悪いが、彼らは国からお金もらって合法的に人を殺してるのだ。私は決して彼らを責めてるわけではなく、ただ、「人を殺すこと」を仕事としてこなさなければならないなんてあまりにもかわいそうと思っただけ。ディーンの言うように、今までもコーフィのような何もしていないのに処刑された人がいたのかもしれない。しかし、看守はそれを知っていても死刑囚を救う事は出来ない、ただ見届けることしかできない、これは看守の仕事だから。ポールやブルータス、ディーンはコーフィが無罪であることを知ってるのに、彼を救うことができず、きっと悔しくて仕方がないに違いない。しかし、ディーンが自分の仕事の意味を疑いはじめた時、ポールは看守主任として、ディーンが自分を責めないように彼を「説得」しようとした。ブルータスも「これは仕事だ」と言った。ポールとブルータスは看守の先輩(上下関係はわからないが、先輩のように見えた)としてディーンを守った。しかし、彼ら3人ともこの死刑制度には問題があると思ってるはずだが、ポールたちにはなんの権力も持ってないから国に何の文句も言えない。死刑の執行人って自分に対しても、他人に対しても残酷でもどかしい仕事だ。

 コーフィ、キラキラした目と愛らしい性格、把瑠都さんすごくハマり役だった。コーフィは優しいというより、純粋だった。アルプス山脈から汲み取った水のように不純物が一切入ってない(アルプス山脈から汲み取った水見たことないけど)。子どもみたいにきれいな心を持つ人間なのだ。愛しいくらい純粋すぎた。好きな人を助ける。自分に優しい人を助ける。かわいそうな人を助ける。苦しんでる人を助ける。そして、自分の好きな人を傷つけ、悲しませる人には容赦がなかった。だからコーフィはパーシーを使ってウォートンを処刑した。コーフィは自分がもうすぐ処刑されるの知ってたから、自分がいなくなる前にポールたちを悩ませた「悪いやつ」パーシーとウォートンを自分の力でなんとかしたかったのではないかと思う。そのやり方は決して正しいとは言えないし、コーフィはポールたちのように「被害者やその家族の代わりに処刑する」資格もない。しかし、彼なりにポールたちを守りたかったのかもしれない。

コーフィの体中には無数の古傷があった。そして、彼は暗いところが苦手だ。もしかしたら、子どもの時に虐待を受けてたのかもしれない。ポールの言うように、コーフィは辛いことがあったら無意識に記憶を封印してしまうくせがある。「覚えてなければ、夜眠れないことはないから」とコーフィは言った。コーフィはどれだけの悲しい記憶を封印してたのだろう。コーフィは今までどんな人生を歩んできたかはコーフィ本人でしかわからないが、決して楽な人生ではなかったと思う。しかし、彼はこの世界を憎むことなく、善良で純粋だった。

ポールたちがミスター・ジングルズの糸巻きの芸を見て笑ってる時、コーフィは「ボス。何見てるんですか?」と子どものように目を光らせポールに尋ねた。コーフィはポールに話かける前に必ずポールのことを「ボス!」と呼んで、ポールが「なんだ?」と返事してから会話を始める。その上下関係がたまらなくて愛しい。 まるで親子のようだった。

そんな我らが看守主任ポールは看守主任でありながら、私にとって、物語の世界へ連れてってくれた存在でもある。グリーンマイルの加藤さんはストーリーテラーではないけど、その役割を確かに果たした。背景の説明などもセリフとして丁寧に練りこまれ、ポールの口からさりげなく語られ、違和感がなかった。

ポールは看守主任として極めて正しい。正しいことしか言ってないしやってない。ポールの中の看守主任像は「死刑は必要だ。国民に必要とされてるから私たちはここにいる。そして私は何があっても死刑囚と看守たちを守る。たとえ職を失っても」、あまりにも頼もしくて正しい。しかし、看守主任としてではなく、一人の人間としてのポールはどうだろう。死刑についてどう思ってるのか気になって仕方がない。ポールのこころを覗きたい。ポールは70人以上の死刑囚の死に立会い、見届けてきた。普通の人間だったらとっくに狂ってると思う。少なくとも私はとても耐えられない。ポールの明るくて、優しい、そして穏やかな性格はどうやって保てるのか逆に不思議で仕方がなかった。そもそも彼はなぜ看守主任になったのだろう。

ずっと死刑囚たちを、看守たちを守ってきて、ブルータスや死刑囚たちより若いんであろうポールの「父性」ってものがちょこちょこ見えて、中盤からもうお父さんにしか見えなくなった。ポールはとても厳しくて、凛とした人間なのだ。時にお茶目な一面もあって、そして誰よりも優しい。優しすぎて見てるこっちが辛くなっちゃうからもうその優しさをやめてほしいくらい優しい。何もかも抱え込んで苦しむ優しすぎるポールを見てしんどかった。「もうこんなに苦しいのなら仕事やめればいいのに!この時代に職を失ったら大変なのかもしれないけど私ついていくから>_< でもあなたは優しいからそんなことはできないでしょ?私はそういうあなたが好きよ。」となぜか勝手にポールの妻目線でポールを見てた。

「このグリーンマイルは長すぎる」ポールの最後のセリフ。彼の死への道が長すぎた。この長い年月の中、彼は色んな人の死を見届けてきた。仲間の死、そして愛する妻の死も見届けなければならない。これはコーフィからポールへの罰なのか。それとも好きな人に長く生きてて欲しいというコーフィの純粋すぎる優しさなのか。

コーフィは処刑される前に自分の残りの命を全部ポールに吹き込んだ。ポールはコーフィからもらった命で100歳以上まで生きた。世の中にコーフィが冤罪であることを知ってる人間は自分しかいない、ポールを責める人間はもう現れてこない。ポールはコーフィとの出会い、一緒に過ごした時間、そして辛すぎる真実..すべて、何もかもきれいさっぱり忘れていいのに、ポールは優しくて正直な人間だから、忘れることができないし、絶対にしないと思う。そして、何より辛いのは、ポールは自ら命を絶つこともできないこと。もちろんポールがしようと思うのならばできたが、この長すぎる命はコーフィからもらった命だから、優しいポールはそんなこと絶対にしない。ポールはコーフィの分まで生きていかなければならない。命をもらったポールにとってこれは救いなのか、それとも呪いなのか。もしコーフィが処刑されなかったらあとどのくらい生きられるのか誰も知らない。この長すぎるグリーンマイルはどこまで続くかわからずに、ポールはひとりですべてを抱えながら、彼の長すぎるグリーンマイルをひたすら歩み続けるのだろう。それはあまりにも残酷すぎた。

 神が本当にいるのならば、なぜこんな理不尽なことが起こるの?神は何のためにコーフィに不思議な力を与えた?コーフィはその神様からもらった不思議な力で殺された双子を生き返らせようとしただけなのに、なぜ殺人犯とされ、処刑されなければならない?神が本当にいるのならば、なぜコーフィにその力を与え、そしてまた彼の命を奪ったのだろうか?なぜ優しい彼らを苦しめるのだ??神は一体何がしたいのだ???と途中から怒りすら覚えた。そしてなぜ旅立つ前にそんな結末を用意した神に祈らなければならない?私にはさっぱりわからない。

観劇後にパンフレット読んだら、スティーヴン・キングの原作小説「グリーンマイル」のテーマは「神が存在するならば、なぜかくも理不尽なことが現実に起きるのかという疑問」だったらしい。スティーヴン・キングが「グリーンマイル」を書いたわけと私が観劇したあとに思ってしまったことが一致してる。悔しい、なにが悔しいのかわからないがなんだか悔しい。悔しいから原作読もうと思います。

世界的に有名なグリーンマイルですが、私は原作も映画も未見の状態で舞台グリーンマイルを観劇した。そこには俳優しかいなかった、こんなすごい俳優しかいない場に加藤シゲアキが俳優としていたのは嬉しかった。よかった。久々生で「お芝居」っていうものを見させていただきました。語彙力がなくて本当申し訳ないのだが、やっぱり俳優さんはすごい。芝居で黙らせるってこういうことなのかと観劇したあとしばらく何も考えられなくて言葉が出てこなかった。

中山さんが演じるブルータスはいつも優しくてポールの味方をしてくれた。お茶目でチャーミングな役だった。親戚のおじさんにほしい。

加納さんが演じるデラクロアは他の役が会話してる時にもちょこちょこキャンディーの箱を開けて、愛しそうにミスター・ジングルズを見てた。お調子者で、ポールやブルータス、ディーンのことが本当に好きだったってすごく伝わってきた。

鍛冶さんが演じるウォートン、ずっっっっっとニヤニヤニヤニヤニヤニヤしてて不気味だった。Eブロック一の悪人で、何一つ良いことはして来なかった。なんならコーフィが処刑されたのもウォートンのせいだった。でもなぜか憎めなかった。

伊藤さんが演じるパーシー、嫌なやつ。嫌なやつなんだけど、意外と真面目な一面があると感じた。執行の練習、彼は丁寧にやった。ベルトを締める仕草とかすごく丁寧だった。あれは俳優さんの仕草が丁寧だっただけなのか、それとも演技なのか。どなたか教えてください。あと全然関係ないんだけど、声がいい。

永田さんが演じるディーン、天真爛漫っていうか、繊細で素直なひと。ミスター・ジングルズの芸を見て誰よりも嬉しそうに拍手してた。コーフィが冤罪だと知って、誰よりも動揺してた。こんな繊細で素直なディーンはなぜ死刑囚の看守になったのだろう。

小野寺さんが演じるムーアズ所長、みんなのお父さん。たとえ職を失っても自分の息子のような看守たちをかばおうとした。ムーアズ所長は看守たちを相当信頼してるし、守ってきた。

ポールとコーフィのお話は上で死ぬほどしてたので割愛させていただきます。本当はもっと一人一人のお芝居をちゃんと見たかった。欲を言えばあと10回くらい観劇したい、全員のお芝居をじっくり見たかった。

私の初めてのグリーンマイルは加藤さんのグリーンマイルだった。グリーンマイルはしんどいストーリーだと色んな方々から聞いたので、私もそれなりの覚悟で臨んだ。舞台グリーンマイルは加藤さんが演じるポールの独白からはじまり、ポールの独白で幕を閉じた。あまりにも孤独で美しい、そして切なすぎた。